カウナス Kaunas
リトアニア第二の都市、リトアニアの旧首都だがこれはソヴィエトによるリトアニア占領が影響し、1919年、ソヴィエト連邦が首都ヴィリニュスを占領したことにより首都が暫定的にヴィリニュスからカウナスへ移転したことによる。
第二次大戦中、杉原千畝領事代理がここでユダヤ人に対して日本の通過ビザを発給した都市ということくらいしか知識がない。その記念館を訪れることを主目的にヴィリニュスから日帰りでカウナスまで足を伸ばした、その甲斐あり、中心地を横断するように新市街から旧市街まで散策した。
カウナスを訪れた目的は杉原千畝記念館を訪れることが第一義だった。その名を知ったのは、1990年代初頭だろう、杉原千畝の記事が新聞で掲載されてからだし、命のビザという夫人が著した本を読んでからだ。
今回、20数年ぶりのバルト諸国への旅行が可能になったことから、是非ともリトアニアのカウナスをと考えていた。かなりタイトなスケジュールであったが、ヴィリニュスからカウナスへ日帰りで足を伸ばすことにした。
リトアニアの旧首都、カウナス
現在のカウナスは、杉原が副領事として赴任していた当時とは大きく異なる、リトアニアもそうだが。現在の人口はカウナス市の人口は約38万人、市民の93%がリトアニア人だが当時は人口約10数万人で約25%がユダヤ人だった。カウナスは、戦後、工業都市として発展し、リトアニア全体の約4分の一の工業生産高を担っている。FDI促進も積極的に行われフリーゾーンもある。
下図、これまた、拝借しているんでしょうがないが、駅とバスターミナルが右下にあるのだがカバーされていないので読み難い。適当なのが見つかるまで暫定ということで。
A:カウナスバスターミナル、近くにカウナス駅(現在改装中との情報)。ヴィリニュスからここに着いた。
B:杉原ハウス、バスターミナルのバスが入る入り口から徒歩で10分もかからなかったはず、公園の横を歩いて途中で小高い丘方面(右)へ、階段を上りきった道路を右へ、100mほどで丘の中腹にある杉原ハウスへ辿り着いた。
C:St.Micael the Archangel's Church
D: St.Micael the Archangel's Churchから直線に伸びる並木道、Laisvės alėja(ヨーロッパで最長の一つ)、両側はショップが並ぶ。
E:City Garden、週末だったのか、出店と民族舞踊のイベントがあり賑わっていた。
F:旧市街の入り口
G: St.Peter and St. Paul Cathederalとxxxx、広場に面して観光案内所がある。
H:ホテルの手前にあるレストラン
I:バスターミナル行きバス停
ヴィリニュスからカウナスへ
ヴィリニュス駅前のバスターミナルからカウナスへ向かう。前日までは、鉄道でカウナスへ行くことを考えていたが、複数のホテル従業員からの聞き取りで、バスのが便利なことと認識し、変更した。鉄道はカウナス駅が工事中で、カウナスIまでしか行かないことがわかっていたこともある。ただ、電化された鉄道での旅も、所要1時間、最後まで諦め切れなかったが時間が限られているので頻度の高いバスとした。運賃は片道20Listas、800円相当だった。
バスの乗客は少なく、一番前に陣取り、リーガからヴィリニュスと同じように晴れた初秋の農村風景を車窓から眺めた。このルート、E85だったか、リーガ-ヴィリニュスの道路より整備が行き届いていた。
1時間15分なのであっという間にカウナスに着いた。幹線道路からランプを降りて市内へ向かう。ランプ周辺はやはり車のディーラーが多い、レクサスもあった。
バスターミナルは、カウナス駅に近い場所にあり、日曜日だからか非常に静かな印象だった。帰りのスケジュールを確認して、ターミナル内にあるカフェでコーヒーを飲みながら、スギハラ・ハウスへの行き方を確認する。思ったより近く、徒歩でいける距離だった。
カウナス点描-新市街から旧市街へ
ヨーロッパ一長いショッピングストリート
杉原・ハウスの後、St.Micael the Archangel's Church、ビザンチンスタイルの教会を目指した。ここからLaisves alejaが旧市街までほぼ直線で伸びる。ヨーロッパで最長のショッピングストリートの一つ、真ん中には刈り込まれた並木が並び、両側はショップが並ぶ、兎に角長い。
日曜日だったのでショップの多くは閉まっていたが、出店が出ており、市民が多い、何かイベント日なのだろう。City Gardenまで来たところでステージがあり、民族衣装を着た少年少女が踊っている。横の出店ではソーセージとポテトを焼いているが、まだ、腰を下ろすには先が長いと思いながら、旧市街を目指す。しかし、長い、通りだし、店の数も半端ではない。
ステージの先に道路と接する箇所があり、更に先へ足を進めると、アンダーパスがあった。ここからが目指す旧市街だろうか、建物の雰囲気が異なる。アンダーパスを超えた左側に、Lonely PlanetのLithuaniaの表紙に使われた広告があった。ここだったのかと納得。
ツーリスト・インフォメーション
St.Peter and St. Paul Cathederalまでまで辿り着くと概ね旧市街の中心だ。その先の広場に面した建物にツーリスト・インフォメーションがあり、入ってみる。そして、レストランとバスターミナルまでの行き方を聞く。
紹介された直ぐ近くのレストラン、この辺り少ない、で遅いランチを取る。結構な賑わいだが、ほとんど観光客のようだ。メニューは英語も併記されていたが何が出てくるかわからないが、ローカルフードであることを確認し、その中にあったロールキャベツとポテトのセットを注文した。
食事の後、近くのバス停まで歩き、トロリーバスでバス・ターミナルへ戻る。降りる場所が良くわからなかったが、車中の人に聞いたら降りる場所を教えてくれた。車中からみたカウナスの街、まだまだ散策したいが時間が許さない。4時過ぎのバスでヴィリニュスへ戻る。
SUGIHARA HOUSE
カウナスの目的
リトアニアの旧首都であるカウナスへ行った目的は杉原千畝記念館を訪れることだった。
当初の旅程では時間的に難しいとの意見もあったがヴィリニュスまで行くのだからとその先100kmの距離は何としてでも行くべきとして実現した。バスでヴィリニュスから1時間15分、スケジュールはややタイトになったが快晴の初秋、週末のカウナスの街は新市街から旧市街まで歩きがいがあった。
スギハラ・ハウス(元在リトアニア日本領事館)はバスターミナルから10分程度の小高い丘の上にあった(バイズガント通り30番地)。旧領事館はカウナスが一望できる丘の中腹に市街地に向かって建てられた建物は通りからは平屋建てのように見えるが傾斜しているので表から見ると2階建てだ。庭にはりんごが実っていた。90年代読んだ「命のビザ」に掲載されていた写真と同じ建物だが通り沿いの鉄柵は現在はない。
杉原千畝
杉原千畝は今では広く知られているが私が耳にした90年代初め(だと思うが)、最初は新聞記事で読んだのだろう、骨太の外交官がいたのだと感心し、感動したものだ。しかし、帰国後外務省を退官せざるを得なかったことや名誉回復云々という記事からは全貌が掴めないでいた。その後、前述の「命のビザ」が出版されこれを読んで彼の行動を理解した。
今では説明の必要もないだろう、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、ポーランドに住むユダヤ人がシベリア鉄道経由で亡命するために必要な日本通過ビザをオランダ領事ヤン・ツバルテンディックと連携し杉原は本省の意に反して発給した。
このような経緯から、その舞台となったカウナスと旧リトアニア日本国領事館に興味を抱き機会があれば実際にの訪問してみたいと考えていた。バルト三国についてはそれ以前から興味を持っていた。一度ソヴィエト時代に予約を入れてもらったが、ホテルが満室で取れず断念したことがある。このとき、杉原千畝のことは知らなかったのでそれはそれでよかったのだろう。
SUGIHARA HOUSE
90年代の記事だったか本の中ではこの建物は賃貸住宅として利用され市民が住んでいるとあったが、1999年に財団が設立され、スギハラ・ハウスとして整備された。90年代といえば既にリトアニアはソ連から独立していたのでスギハラハウスはバルト三国行き再燃の糧になっていた。それゆえ、今回このタイミングで行けたことはこの上ない光栄の極みであり素晴らしいプチ旅行となった。
写真は、スギハラ・ハウスの一部がヴィタウタス・マグヌス大学日本学センターとして使われ、私が訪れた時には日本語の授業を待っている女学生がいた。 日本語教育国別事情リトアニア(国際交流金)のサイトにこのセンターが紹介されている。
杉原千畝関連サイト
Sugihara House
http://www.sugiharahouse.lt/
カウナス市役所
http://www.kaunas.lt/go.php/lit/English
リトアニア杉原記念館(古いサイトかな)
http://www.geocities.jp/lithuaniasugiharahouse/indexj.htm
杉原千畝記念館
杉原千畝の出身地である岐阜県八百津町には人道の丘公園(1992年開園)が建設され、その中に杉原千畝記念館がある。
http://www.town.yaotsu.gifu.jp/sugiharatiune/index.html
Gallery Kaunas
こちらに保存しています。
flickr Vilnius Old Town, a week end of autumn2009
カウナス諸情報
第二次大戦前夜及び戦中のカウナス
1919年、首都であったヴィリニュスがボリシェビキに占領されるとリトアニア政府はカウナスに暫定的に首都を移転、翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併合されカウナスは正式に首都となった。カウナスはソヴィエトがヴィリニュスをリトアニアへ返還する1939年10月28日まで首都として存続した。
第二次世界大戦前のカウナスの人口は、70,900、他のヨーロッパの都市と同様に,ユダヤ人25,500人、約36%を占める、が住んでいた。(1897年ロシア統計)
1940年、カウナスはソヴィエトに占領され、リトアニア社会主義共和国へ併合される。
それから第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工業的にも発展した。大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部と共にソ連に占領されたが、間もなくドイツ軍が侵攻し街は破壊された。戦後はソ連の一部となり、再び工業が盛んになった。リトアニアの工業生産の四分の一を担うまでになり、1966年にはトロリーバスが開通した。
2001年(wiki):
1. リトアニア人 352,051 92.9%
2. ロシア人 16,622 4.4%
3. ウクライナ人 1,906 0.5%
4. ポーランド人 1,600 0.4%
5. その他 6,764 1.8%
1897年(ロシア国勢調査)
1. Jews 25,052 35%
2. Russians 18,308 26%
3. Poles 16,112 23%
4. Lithuanians 4,092 6%
5. Germans 3,340 4.5%
6. Tatar 1,084 1.5%
7. Other 2,932 4%
両大戦の合間のカウナス
二回の大戦の合間、カウナスはの工業は繁栄しリトアニア最大の都市となった。特に1921-31年の間、カウナスは急成長し、2500以上の近代的なビル、ネリス川とネムナス川の架橋建設、街路の舗装、馬車からバスへの更新、上下水道整備、郊外住宅地の建設、公園や広場の都市施設やVincas Kudirka libraryを含む図書館の建設の建設、教育施設の新設など広範囲に近代化が行われた。また、社会保障基金が創設された。
両大戦の合間、カウナスはユダヤ人の人口が3.5-4.0万人に上り約25%を占め、商業、芸術、プロフェッショナル分野で活躍した。カウナスはユダヤ人の教育の中心でもありThe yeshiva in Slobodka (Vilijampole.)はヨーロッパでも伝統あるユダヤ高等教育機関のひとつであった。カウナスには100のユダヤ機関があり、40のシナゴーグ、ユダヤ人病院、多数のユダヤ人が所有するビジネスが存在し、シオニストの中心でもあった。
カウナス・ユダヤ人の悲劇
1940年、ソヴィエト連邦がリトアニアを占領した時に先ず混乱した。占領は逮捕、資産没収、全てのユダヤ機関の閉鎖をもたらし、ユダヤコミュニティ機関は一夜のうちに消滅した。ソヴィエト連邦はユダヤ人の資産を没収すると共にユダヤ人をシベリア送りにした。
Lithuanian Activist Frontがリトアニア人emigresによりベルリンで設立され、リトアニアにおける反ユダヤ文学の普及をおこない、その中でユダヤ人のためのソヴィエト占領を非難した。
1941年6月22日、ドイツ軍のソヴィエト連邦占領に続いて、ソヴィエトはカウナスを解放した。ドイツ軍占領の直後の6月25日、反共産主義ドイツの組織的な反乱軍は、特にJurbarkoとKrisciukaicio通りソヴィエトの抑圧を非難したユダヤ人を攻撃した。3800人以上のユダヤ人が虐殺され、数百人がLietu-kis garageに連行され殺された。最終的に、ドイツ軍はカウナス・ゲットーを建設したが、戦争末期までにほとんどのユダヤ人が一掃された。
カウナス-ヴィリニュス間の移動
カウナスバスターミナルから概ね30分ごとに運行されている、所要1時間15分。
カウナスの地図
本屋で容易に入手可能。
カウナスの天候等
Vilnius